ANA国内線【PR】

あらあら・アラフィー

monkichi.exblog.jp

アラフィーサラリーマンブログ

更新が遅れてm(._.)m
更新していない間、大飯原発の再稼動とかが話題になってしまいました。
私は原発はやはりいらない!!なので、再稼動は反対だー!!はい。
4月になり、わが町にも放射能対策室なるものが設置されたようです。
とはいえ、まだ具体的にどうこうする動きはありません。
これからですが、町内のメッシュ測定が行われ、除染計画が進む事を願います。
町民の方々も少しですが、放射能汚染を意識する方は増えてきているのは事実です。
Twitterでもつぶやきましたが、わが町では、一部地域、阿武隈川河川敷、山側の団地以外では、除染の基準となる0.23μSv/hを50cmでは超えてはいません。
ですが、地上5cmでは、植え込み、雨樋、道路の排水溝など水が流れる箇所の溜まっている砂などは、0.6μSv/hを超える箇所はあちこちにあります。
具体的な除染計画はまだですが、こういう場所は除染されないのではと懸念しています。
米どころ、農業、漁業の町であるがゆえに、躊躇しているようにも思います。また、津波被害も甚大であり、それどころではないという風潮も感じます。
ですが、だからこそ、徹底した対策を講じることで、この町の子供、町民、産業が守られる事につながると思います。
汚れたら綺麗にする、当たり前の事だと思います。
風評被害という言葉は、今回の原発事故では使えない言葉だと思います。
わが町も含め、あらためて原発事故の恐ろしさを感じ、少しでも放射能汚染を少なくする事をしていかなければならない!!だと、思います。
大震災からの復興、原発事故の放射能汚染の対応、大変だけれども、やらなければ前には進まない。
やらなければいけないと思います。

原発いらね!!再稼動反対!!
# by monkichi_dai | 2012-04-17 18:56 | 原発事故 | Comments(1)
Twitterを通して、放射能汚染の状況やら測定値のまとめとかを確認できた。
国は原発事故の当時国であることから、放射線量の暫定基準値(緊急的な暫定値?)を公表したが、それは子供や乳幼児には安全と思える値ではないと、自分的に感じたのだ。
案の定Twitterでは、暫定基準に対する批判的な意見が多い。
いろんなデータが確認できてきたのは、昨年6月頃からのように覚えている。(←あくまで自分の記憶なので)
航空機によるモニタリング結果、土壌検査等、昨年秋頃にようやく詳細な情報が増えて、各地の汚染具合とか、汚染された状況などメディアでも取り上げられてきたのだ。
私は、早川先生の早川マップと呼ばれる汚染地図はとても役立ったと思う。
これは国民の力で作り上げたといっても良い。政府よりも早い段階で公表されたことには必ずや意味がある。
以外な汚染地域もこの地図からわかったのだ。該当地域の方の危機感は高まったはずだ。
少しでも危機感を持つことにより、外部、内部被曝量が少なくするに越したことないからだ。

その頃、食の安全は完全に崩壊し、暫定基準値ですら上回る食物が市場に出回った事実が、後の祭り状態でわかってきた。
こうなるような状況は、私レベルでも容易に予想できてのだから残念なことだ。
国もそうだが、出荷する側も危機感が薄すぎると感じる。
こうなれば、市場に出回る物が全て安全というのは、誰が見ても疑わしい。
風評被害というけれど、それは出荷する側に都合の良い言葉になってしまっている気がする。
日本の食の安全の崩壊は海外が輸入禁止措置をとっていることからもわかる。
例えば、近隣国で同じ状況じょ国があれば、日本人はそこからの輸入はしないだろうし、旅行にもいかないだろう。
現在、アメリカの措置として、ふくいちから80km圏内に1年以上の滞在を禁止している。
だから、わが町にもアメリカ人は住んでいない。
仙台でも外国人をあまり見かけなくなった。

各地で子供を放射能から守る会などの発足が相次いできたのも納得できる。
また、給食の拒否等も増えてきている。
そういう状況の中、「食べて応援」というCM・・・ 呆れた。
食べて応援って、儲かるのは、ただ同然で仕入れたあくどい業者だろうと思った。
生産者は、本当につらいと思う。昨年は生産しない方たちもいる。
安全を保証できないし、そういうものを出荷したくないからだ。
どちらにせよ、被害者なのだ。

この4月から新たな基準が適用される。
この基準が全て守られたとしても、安心なのか? 私はよくわからない。
ならば、全ての食品に測定値を表示すればよいのではと思う。
全検査だ。そこまでやる覚悟が必要だと思う。
もちろん、基準値内でも高い値の物は売れないどろう、だけどもそれでいいと思う。
出荷する側も危機感を持つ、買う側も数値を確認し購入できる。
不確かなものは売れなくなるだけだ。
外食産業すべてやるべきではないか!!
それほどまで、東北の産物は疑われてしまうのだから。

続く・・・
# by monkichi_dai | 2012-03-25 17:45 | 原発事故 | Comments(0)
新シリーズ
ひぇーかっこいいタイトル(笑)←笑える内容かいっ!!

原発事故による放射能汚染を知ってから約1年
私の住む町も、2012/2/28?に「汚染状況重点調査地域」に指定された。
具体的な調査・除染については、これから検討のようだ。

さて、福島第一原発の事故・爆発(←あえて水素爆発とは言わないよ)のことを知ったのは、ラジオから
その時は、遠い場所の事と思っていた。
3/15頃の雨にあたるなのチェーンメールでも危険とは思わなかった。
一番やばいと思い始めたのは、電気が回復し、枝野の発言だ。
TVで何回も流された「直ちに・・・」この発言で、私は逆に相当やばいことが起こったんだと認識し始めたのだ。
ネットがつながりだし、YouTubeでの爆発映像
Twitterでのいろんな方のつぶやき
原発事故による放射能汚染の深刻さを自分ながらに思い始めた
でも、ここ(自分家)は原発から直線距離で約75km
大丈夫なのかなぁと不安ながらも思っていた(←とはいえビビッていたのが本音?)
10km圏内が避難区域になった事を知り、70km超えのこの場所はやはり安心かと疑問ではあるが、そう思った
この時点で事故の重大さ、放射能汚染が深刻であることは認識したが、我が町も汚染されたの認識はまだなかった。

放射能の恐ろしさは、広島の原爆のことくらいしか知らないのだ
時が経つにつれ、ネット上では放射線量の測定だとか、ガイガーカウンターとか、ヨウ素、セシウム
聞きなれないキーワードが
勉強したわけでもないが、放射能についてわかり始めた?(←未だにわかってはいないと思うぞ)
μSv/h って単位があることはわかった。
放射線測定器(ガイガーカウンター)で、測定できること、すげー高価だってこともわかった。
γ線、β線、シンチレータ・・言葉を覚えたw
んじゃどんくらいの値が危険なのって思うけど、自分は原発事故前より少しでも放射線量が増えていれば危険だろうと思った。
今でもそう思っている。汚れたら綺麗にする。それが多い少ないにかかわらず、汚れたら綺麗にすると思うのが普通だと思う。(かといって、家の掃除は・・・突っ込んでこないでねw)

年間10mSv/hまでを基準にするだとか、レントゲンで浴びる線量とかのデータが公表され、いかにも心配しなくても大丈夫的なものが多くなり、御用学者さんと呼ばれる人が活躍しだしたのだ。
各地の汚染状況を示すデータも増えだし、少しづつではあるが汚染状況が明らかになってきた。
マップもネット上で文科省が地図を公表する前に、できあがったりした。
わが町の汚染度合いもわかり始めた。

Twitterでは震災以降の生活関連(ガソリンだとか、交通情報etc...)から、原発事故、放射能汚染情報のフォローが増えだしたのである。
誰もが、不安だった。
子供を守りたい親、避難を促す人、避難を受け入れる人、測定情報をまとめる人、御用学者の発言を否定する人、政府の対応を非難する人・・・
昨年夏、放射能汚染の危険性を訴えるつぶやきが圧倒的だった。
自分の住む町も汚染されていることを認識したこの頃
自分はどうすべきなのかとまどい、子供の影響の不安感がピークの頃だった

その2へ続く のかなww
# by monkichi_dai | 2012-03-23 23:10 | 原発事故 | Comments(0)
3/15(火)自衛隊の給水車が公民館にきてくれた。
三重の部隊のようだ。
このときから、自衛隊の活躍がこの町の町民にとても勇気を与えてくれたのは言うまでもない。
今思い出しても感謝、感謝の気持ちでいっぱいだ。
ここで頂いた給水袋がすごい役立った。今後の災害のときも役立ってくれるだろう。

携帯もこの日からつながりだしていた。会社の同僚ともメールのやり取りができている。
家はまだ、停電。
たしかこのとき娘の携帯に、チェーンメールが届いていた。
原発の事故で、雨にはぜったいあたるなというメールだ。
今思えば、すぐにデマと報じていたラジオ、原発事故で何を信じていいのかわからなかったとうのが現実だった。
幸い我が家は、この日給水車に車で全員で出かけたが、この日以外はほぼ私だけが、自転車で走りまわっていたので、家族は室内にいることが多かった。今思えば、これで良かった。
息子は避難所とかに何度か遊びに行っていたかな?給水もつれて行ってたな・・・と思い出す。


夕方、避難所の小学校まで電気が回復していた、我が家までもう少し。
電気キター!!のメールが19:50に発信されていた。
残すは、水。電話も通じないが、携帯がつながっている
この時から、TVで震災の状況を映像でみれるようになったが、甚大な被害と原発事故には絶句した・・・
公衆電話がいつ回復したかは、覚えていないが、だいぶ遅かった気がする


3/16(水)会社の同僚とのメールで、この週は会社は自宅待機となった。
いづれにせよ、交通手段は車しかない。
JRがいつ回復するのかもわからない

給水、食料買いに走り回る日々が続いた。
家の電話(固定電話)より先に、ネット(ADSL)の回復が早かったのを覚えている。
水の試験通水は3/17、本格通水はいつだったかは不明、
また、3月いっぱいは、ガソリンを求め車列が想像を超えていた。
スタンドまでの列がどうなってこうなったのかわからないくらいの列ができていた。
隣町まで続いたこともあったのだ。

いい加減に書いてきましたが、我が家は大きな被害もなく、家での生活もできています。
幸せ者です。
この震災で家を流され、家族との別れ、全てを失った方々の苦労は計り知れません。
半年以上も避難所で生活し、今も仮設住宅です。
一刻も早く、落ち着ける家で過ごせるように願います。

最後に、この被災地で活動された自衛隊の皆様、今でも続いているボランティア活動に参加してくださった皆様から本当の勇気をこの町はもらったと思います。
本当にありがとうございましたm(__)m 

あっさりこのシリーズは終わりにしてしまいましたが、このBlogは引き続き更新していきますので、よろ(^^)/
# by monkichi_dai | 2012-03-19 10:12 | 震災 | Comments(0)
更新が遅れてm(_ _)m

震災時のメールを確認しました。
震災後機種変した事もあり、送信メールしか残ってませんでした(>_<)
その記録を元に震災3日目以降を思い出しながら、書いています。
3/13日曜日、ガス以外のライフラインがなにもない町、地域によっては全てのライフラインが途絶えています。
情報手段はラジオだけ、それは地域の情報ではなく、広域的甚大な被害の状況を知るのみでした。
地域の情報は、周りの方々との情報交換でした。
自転車であちこち走り回りました。避難所の小学校で充電しながら、近くの井戸水が開放されているとかの情報を得る事ができたり、地域内での行動が1番情報が得られました。
とにかく人と会えば何かしら話しました。
3/14月曜日は、平日です。
会社には連絡手段もありません。
通信手段が何もありません。
小学校の屋上で携帯がつながる情報があったりしましたが、SBはだめでした。
そこで、車で岩沼まで向かいました。
4号線が近づくに連れアンテナが立ち始めました。
岩沼に入り、スーパーの駐車場に車を止め、メールしまくりです。
会社の同僚に送ったメールです。
「家にいますが、亘理町 電話すべてだめ
今、岩沼まできてつながりだした。
家にいるときは、連絡手段ありません。
公衆電話もだめ
会社はどうすればいい?」
会社は自宅待機で良いことがわかり、また少なくともビルも片付いていない為、自宅待機が続くようだとの返信がきました。
また、メールで義理姉に無事であることを伝えたら、何故か自分の実家からすぐ電話が入った。
自分の実家では必死に安否を気づかっていたようだ。義理姉が自分の実家にすぐ電話を入れてくれていた。
会社、家族にも無事を伝え、一通り連絡が終わった頃には、バッテリーがきれる寸前でした。
# by monkichi_dai | 2012-03-16 21:23 | 震災 | Comments(0)
震災から2日後
停電、断水、携帯圏外、公衆電話不通。
ガス不通と思っていただけだった。
メーターの復旧ボタンを何回か押したが状態が変わらない為、ダメなんだと思っていた。
隣の家の人と話していると
「ガスは止まらないでよかったね」と言われ、初めて気づいた。
ひねってなかっただけだと(笑)
マイコン制御のガスメータはなぜ止まらなかったのか疑問ですが・・・
ガスはでた。ガス漏れもなさそうなので、普通に使える。
ガス以外のライフラインは全て全滅。
でもガスが使えるのでだいぶ助かった。

避難所の小学校に行くと発電機がきていた。テレビも入り口に置かれていた。
携帯の充電もはじまっていた。すごいタコ足だ。
知ってる小学生は、PSPを充電していた←これも重要だw
状況は少しずつだがわかってきた。
沿岸部からも避難してきている人が増えてきたようだ。
まだまだ避難所の運営とは言える状況ではない。手探り状態だ。
避難者の人数とか把握するにはまだ早すぎる状況だ
津波は東部道路から伸びた常磐道を越えなかった事がわかった。道路がなかったら更に浸水区域は広がったと思う。
この時は、食糧買い、ガソリン買いに想像以上の列が起こる事は知る由も無かった。
ましてや原発が爆発する(していた)なんて考えもつかなかった。
# by monkichi_dai | 2012-03-13 20:50 | 震災 | Comments(0)
家に入ると、地震の爪あとは感じられない日常と同じだった。
片付けがほとんど終わっていたのだ。
食器やら落ちている写メを見た。買ったばかりの炊飯器も落ちて転がっていたが、壊れたのかわからない。
停電なので壊れたのかの確認もできないのだ
一番散らかったのは、私のおもちゃ類で、寝室に散乱していたようだ。
家具類は動いたけれど、倒れはしなかったそうだ。
とはいえ、揺れははげしく靴も履かず外に飛び出したと妻は言っていた。
津波のサイレンがなり、高台に逃げようかメールを私にしていたようだ。
そのメールは携帯がつながりだした5日後くらいに届いたのだった。
携帯は圏外のまま変わらなかった。
停電後しばらくは使えたようだが、震災翌日には圏外となったそうだ。
ただしメールのやり取りはできなかった
何はともあれ家族は無事だったのでホッとしたのだ。

家で少し休み、自転車で避難所の小学校に行ってみる。
途中、公衆電話を確認したがうんともすんとも・・・
唯一使えると思った公衆電話も全滅していた。
この町は、通信手段を失っていたのだ。
小学校に着くと、地域の人たちが結構避難していた。
家の中は片付けられないほど家具が倒れたり、また余震も怖いとの事で避難してきたようだ。
知り合いの方や、息子の友達ともいた。みんな元気だったので安心した。
沿岸部に仕事でいた人、車ごと流され命さながら逃げてきた知人の話も聞いた。
そこでは、炊き出しまで始まっていた、さすが農家の方々、食材はあるのだ。水は地下水が出る場所がある。
よく見渡すと、地域以外の沿岸部の方もここに避難してきているようだった。
家を津波に流され、車も流され全てを失った方々だった。
何も言えなかった。
沿岸部の地区の避難所と指定されたのでこれから避難してくる人も多くなると聞いた。
まだ、発電機はなかった

家に戻った。
電気、水、ガス、電話全ての機能を失った。
(翌日 ガスは実は止まっていなかったことに気づくのだけれど・・・)
幸い米はあり、冷蔵庫には冷凍食品があった。水も少しはあった。
カセットコンロと鍋でおかゆににして食べた。とてもおいしかった。
その時は、普段の日常が贅沢なんだと、しみじみと思った。
夜は暗くなると寝るだけだ。ラジオを聴いていたが、悲惨な状況と安否を確認する内容が多い
疲れとほっとしたのと、眠りは早かった。
余震を恐れ服を着たまま、靴を寝室において眠りについた。
# by monkichi_dai | 2012-03-12 22:35 | 震災 | Comments(0)
同僚のマンションを出て、タクシーを捕まえたかった。
なかなか止まらないし、つかまらない
結局、仙台駅東口のタクシー乗り場へ
3-40人くらいは並んでいたと思う
進みが悪い、殆どのタクシーは、手前で近場の人を載せていく。タクシー乗り場で待っている人は長距離だと知っていてあえて入ってこないらしい。
仙台のタクシーの評判が悪いのはここにある。
ガソリンスタンドも営業できないのも知っていたのだね。
乗り場で待つ人は粘り強い。
公衆電話にも長蛇の列が出来ていた。
先輩を見かけた。
車を出そうとしても停電で出すことができないとのこと。
塩釜の実家を心配していた。
いっこうに進まないタクシー待ちの列でお互いの行き先を確認しあい、相乗りする動きが出来てきた。
時折くるタクシーに相乗りで乗り込む
結局、私たちがタクシーに乗れたのは、並び始めて4時間後だった。
亘理と告げると、嫌がる事もなく
「亘理か、久しぶりにいくなぁ」と明るく応えてくれた。
長町を抜けるか、バイパスまで出るか、ルートの確認で、バイパスを選んだ。
今思うと、それは正解だった。
明るい運転手さんだった。
秋田にいると言う息子さんとメールしながら、信号が消えているバイパスを快適に進んだ。
ガラスが割れているビル、屋根が崩れ落ちているスタンドが目に入ってきた
津波はバイパスまできた形跡はなかったが、阿武隈川を越えられるのか不安だった
岩沼を越え、阿武隈橋を越えた。
不安は消えた、津波は6号線まできていない!!
娘の友人の家も大丈夫そうだった。
家の近くのバイパス沿いでタクシーを降りた。とても楽しい運転手さんだった、ありがとう!!
家は無事だった。
# by monkichi_dai | 2012-03-12 12:57 | 震災 | Comments(0)
タバコを吸いにまた外にでた
会社のタバコ部屋同様、そこは情報収集にはもってこいの場所だ
沿岸部にいた人が、凄まじい津波の事を話していた
家の事が急に心配になった
避難所には飲み物とパンが届いて、配布する準備が始まっていた
暫くして拡声器で配布する案内がされた
お年寄り、子供、女性、男性の順だった記憶がある
最後に私も水とパンをいただいた。
避難していた人、全員に行き届いたようだ
今思うと会社をでてから水も何も口にしていなかった。
パンの種類はばらばらで私はメロンパンだった。少し口にした、美味しかった。
教室に戻り帰る準備を始めた。
周りの方々と挨拶を交わした。
不安な顔のOLさんにも励まされた。
まずは同僚のマンションに向かった。
あわよくば、車で送ってもらう予定だった。
途中、避難所の小学校では炊き出しをしていた。
おにぎりを配り終えていた所だった。
マンションに着くと、同僚は新幹線北方面組を載せて出発した後だった。
福島の同僚は帰る手段を模索し、駅方面に向かうところだ。
少し休ませてもらった。奥さんと福島の同僚が先ほど通った避難所から並んでご飯をGETしていた。娘たちは、トイレをかり、私もご飯を頂いたのだった。
# by monkichi_dai | 2012-03-12 12:10 | 震災 | Comments(0)
避難所で迎える朝
明るくなってきたので、外にでてみた
入口の発電機からのコンセントから携帯を充電している。若者がPCで情報発信している姿もあった
河北新報の号外が届いた、たまたま1Fにいた私は手にする事ができた。
号外はあっと言う間に配り終えてしまった。
凄まじい写真が目に入ってきた。想像を絶する内容の記事だ。
号外を見て泣きだす人もいた
2Fの教室に戻り、周りの方に新聞を見せると誰もが絶句していた。
沿岸部に家や親戚がいる人は特に動揺していた
何も言えなかった
# by monkichi_dai | 2012-03-11 18:29 | 震災 | Comments(0)
< 前のページ 次のページ >

by monkichi_dai
XML | ATOM

skin by excite
トップ